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「かけ算の順序論争」にツッコミたい

結論:教育に『絶対的正解』があるなんて勘違いしてんじゃねぇよ!

 

はい、言いたいことはだいたい言い終わりました。

ただ、このままだと説得力がないと思うので、どうしてこう思うに至ったのか、「かけ算の順序問題」のどこにツッコミたいのかを説明します。

 

 

前提条件

とはいえ、私の論じたい部分を明示して置かなければ、いろいろと誤解を生むと思われます。

少々長くなりますが、これも大事な儀式なのでご容赦ください。

 

前提条件その1:あくまでも「数式における順序」についての話です

この問題でよく挙がる意見が「日本語から数式にするとき、どうすればいいのか分かりづらい」というものです。

そして、この件について(少なくともこのページでは)論ずるつもりはありません。

理由は単純、私自身よく理解していないからです。

 

なので、この問題については引き続き議論していただければと思います。

私の脳内でも「グローバルスタンダードの観点から、英語と同様の順番で考えるべきである!」「そもそもの文法が異なるんだから、英語と日本語でかける数・かけられる数の順番が逆になるのは当然だろうが!」と絶賛議論中です。

 

前提条件その2:理想論です

後述しますが、現実的な問題として「かけ算の順序は決めるべきか、そうでないか」の答えを出さなければならない、というのは理解しています。

ただ、端から現実的な問題ばかりに目を奪われて、目指すべき理想を見失ったら元も子もないかと。

一応「そんなことできるはずないだろ」ってのは私自身よく理解しております。

だからこそ『かけ算の順序問題における完璧な回答』などと驕るのではなく、あくまでも一個人のツッコみとしてこの記事を書きました。

 

本題

さて、注意書きも終わりましたので、いよいよ論争のツッコミ所について話していきたいと思います。

 

ツッコミその1:子どもには個性がある

多分、無邪気に「かけ算の順序問題」を議論をしている人は、この点を理解していないのだと思います。

 

ある子にとってはAというやり方が合っている。

しかし、別の子にとってAのやり方は合わず、Bというやり方をしなければならない。

ところが、Aが合っている子にとってBは合わないやり方だ。

 

そんなことが多々あるのが教育だと思います。

 

そんなことねえだろ、と思ったそこのあなた。まず、あなた自身がインドア派かアウトドア派か、社交的か内向的か考えてみてください。

インドア派で内向的なあなた! フルマラソンフォークダンスをプレゼント。

アウトドア派で社交的なあなた! パズルを解ききるまで誰とも会話できず、出ることのできない個室をプレゼント。

向き不向きがないなら、当然できますよね?

私は(もちろん生命の維持に必要なものが用意されるなら、ですが)後者ならできる自身があります。前者は無理無理。

 

大人ですら向き不向きがあるのですから、子どもに対してそういう配慮をしないのは道理に合わないでしょう。

 

 

具体的な話をします。

かけ算の順序が可換であることに囚われ、引き算や割り算でも入れ替えてしまう子ども、

数学的センスに優れ、入れ替えの可否を瞬時に判断できるが、言語に則った順序付けが苦手な子ども、

の二人がいるとします。

最善なのは「順序を決めて教える」、「かけ算は可換として教える」のどちらでしょうか?

 

答えは「一人目には順序を教え、二人目は可換であるとして評価する」です。

先程の選択肢、どちらを選んでももう一人の子を見捨てることになります。それが『最善』の教育なのでしょうか。

もちろん、教師の不足が問題になっている昨今の情勢では、完全に一人ひとりにあった教育をする余裕はないでしょう。それ以前に、どんな教育法が適しているかなんて簡単に分かるものじゃありません。

しかし、机上の空論なら、まずは理想的な目標を前提とすべきでは、と思います。

 

「一部を切り捨てる教育法」と「別の一部を切り捨てる教育法」が争ったところで、明確な勝ち負けなどあるはずもないでしょう。

そこを分からないまま「自分の派閥が正しい」と言っていること、これが一つ目のツッコミどころです。

 

ツッコミその2:子どもの将来の可能性は無限

ある口喧k……議論を見かけたことがあります。

 

行列のかけ算では交換法則が成り立たない。その上でどうすべきか。

 

かけ算の順序を決めるべきと言う人(以下、順序派)からは、「今後必要になる概念なら、教えておくべきだ」

前後を入れ替えても問題ないと言う人(以下、可換派)からは「行列なんて使う人が限られているのだから、義務教育で教える必要はない」

と、それぞれ見解を述べていました。

 

どちらが正しいのか。ここまで私の駄文にお付き合いいただいた皆さまなら、簡単に分かるでしょう。

どっちも一部正しくて、誰かを切り捨てる次善策に過ぎないと。

 

目の前の子どもが、将来行列を使うかどうかなんて、分かるはずもありません。

それなのに「使う!」「いや使わない!」なんて言い争うのは醜い。

はっきり言って、子どもを出しにして言い争いたいだけで、子どものことなんてちっとも考えていな……流石に言い過ぎか。あまり考えていないように見えます。

 

 

再三繰り返しますが、次善が悪いのではありません。それこそ第三善でも構わないと思っています。

 

"Give me the third best technology. The second best won't be ready in time. The best will never be ready." --Robert Watson-Watt

「第三善を寄越せ。次善は間に合わない。最善は永遠に用意できない」、私の好きな言葉です。

 

しかし、次善策を最善だなどと錯覚していては、第三善すら実現しない。

そこを弁えていれば、もっと建設的な議論ができると思います。

 

以上!